50年後の人々にとっての核兵器

自分が50年後に生きていたとしよう。その時にみる、あるいは考える現在の核兵器はどのようなものだろうか? 首相官邸の屋根に忍び込んだドローンの問題をきっかけに想像してみた。 放射能汚染を引き起こす核は悪い。しかし、低コストでより多くのエネルギーを生み出す我々にかかせないものでもある。核分裂をする時に生み出されるエネルギーを利用して、75年前に核爆弾が広島と長崎に落ちた。第二次世界大戦後、米国と旧ソビエトは核兵器をもっとも多く保有し、世界をパワーバランスでもって平和を結果的に維持してきた。その後、今となっては多くの国が核を保有した。広島と長崎で犠牲になった多くの人々は核兵器の恐ろしさを後世に色々な形で伝え、その恐ろしさが時には国と国同士の恫喝に使われ、政治的取引に使用されてきた。 50年後の自分に話をもどそう。 米国が核を保有すると同時に自由と平和のために、政治的駆け引きをしながら、一般の国民同士が今ではお互いを理解し、どこの国においてもお互いを尊重しながら生活するようになってきた。国は各々の国がそれぞれの歴史的背景を抱えながら、それぞれが一国ごとに存在している。考えてみると日本もかつては藩が存在し、それが県となり、国が成り立ってきた。米国も同様に州が存在し、米国というひとつの国が形成されてきた。これは国がそれぞれに存在し、ひとつの世界が形成されるのと同じだ。日本では明治維新があったが、その時にも戦争はあった。米国でも南北戦争があった。おそらく他の国も同様であった。 核兵器はそれぞれが自国のために保有したが、今となっては核兵器自体が世界に必要と考える国がなくなってしまった。結果ではあるが、長崎と広島で犠牲になった人々が自分の命と引き換えに世界に平和をもたらした。50年前の時代には核を保有していた国はあったが、どの国も長崎と広島で使用された以外は一回もこれまで使用されることなく核兵器を保有する国は消滅して今に至ってしまった。振り返ると核兵器を作り出した最初の意図は戦争の武器使用であったが、核兵器自体が世界に平和をもたらした。核兵器の恐ろしさが世界に平和をもたらした。皮肉である・・・・・・ そんなことを想像していると、やはり日本は導かれるべき国、世界をよりよく導ける神の国としかいいようがない。小生は国粋主義者ではないが、愛国主義者である。原発も完全に人為的にコントロールできるようになるまではクリーンエネルギーの世の中を望みたい。水からエネルギーという技術も早く普及してほしい。集団的自衛権を盾に核兵器を日本が平和の為に保有すると言ったら米国はじめ国際社会は何んと言うか?国際社会の論理に何か、噛み合わないものを感じているのは小生だけではないと思う今日この頃でした。

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